痛みを葬らない

6歳の女の子が17歳の兄に殺されてしまった事件。

 

いつになっても、子供の命が心が、親の都合で犠牲になる事件はなくならない。

 

17歳の男の子に対する気持ちを書いてみたい。

頼れる身内がいない幼少期から、物心はっきりわかる少年時代、多感な学生時代。

どれほどの孤独と、うすうす気づき始める周りとのあまりに違う理不尽な現実に向き合ってきたのか。

 

教育を受ける環境を奪われ、初めましてに等しい妹の世話押し付けられる。世話というかすべての責任…?

 

自分の人生を生きることをさせてもらえていない、気がしてならない。

 

大人になってつまづいて、過去のせいにしたくなる材料はたくさんあれど、多くの大人はいつまでも親のせいにするなと言う。

だけど、親のせいにさせて欲しい。

あまりにも違いすぎる。

 

1人の人として認めてもらえず、親の言いなりにならざるを得ない、親のためにイエスだけで生きてきた人が、ノーを言えるようになったときくらい、誰かを悪者にすることを許したい。自分だけは、自分の気持ちを許したい。

 

あいつを許せない。

親を憎んでいる。

 

自分に生まれる感情がこういう感情なら、綺麗に上書きしなくていい気がしてる。

 

過去の苦しみには、簡単に前向きには捉えられないほど酷いものはある。

 

17歳の少年の人生は続く。

 

苦しみがあることは、悪ではないと私は思う。

体の何かを蝕んだりするのもだと思っていたけれど、そうでもないと最近思う。

無くそうとするから辛いのかもしれない。

 

よく今日まで生きてきた。 

痛みは無理して葬らなくていいのだ。

時に自分に言いたい。