頭にくるぜ
なんでも受け入れるって無理。
理不尽も嫌なことも、なんでも静かに受け入れるのはもう人間の良いところではない。そんなものぜんぜん褒められることじゃない。
かくいう私も、そのど真ん中の価値観にいて、厳しく、個性を潰し、万能にできる子にしたかった親の元に育ったので、“無理やり受け入れる術“は時間をかけて学んではきたが、未だに苦手である。
そしてそれは心身に無駄であると気づいた。
世間にはくだらない美徳が山ほどあって、近年それが懐疑的になってきていることはいい。我慢など美徳なわけがない。と私は心身を壊してようやく知った。
それでも生きるにはその方法しか術はなかったのだから、仕方がない。
確かに怒りは疲れる。
感情的なやつだと、大体論理的で冷静な人は人は言うかもしれない。
だけど、必要な場面はあると思っている。
闇雲に怒鳴り散らしたり、暴力はいけないが、悔し涙をそのままに声を上げることをするのは自然なことでは。
スキージャンプ。
日本チームの「自分達の責任」って言葉は、一見理解があり、謙虚で美徳に見えるけど、これから(スポーツ界の)未来が良くなるきっかけを潰してないかな、と感じる。
私も山ほど言われて、山ほど思ってきた
「あんたは出来が悪い」
「何にもできない子」
そうか「私が悪い」…
でも、それを多用しても自分も環境も良くならない。
相手はますます図に乗るし、意味のわからないことで怒り続ける。
今回、ドイツやオーストリア、ノルウェーが怒りの声を上げてると聞いた。
それは応援したい。
理不尽も本当に納得できないことも、特に相手が自分にとって権力者の場合、受け入れるってすごく疲れるし、なんというか自分の中の何かが削られる感覚するんだよ。
ノーが言えないってよくない。
言わないといけないと常々思ってる。
受け入れる、我慢する、無理やり納得させる。
日本人の美徳に見えるそれらは、とっても身体に悪いし、人間ぽくない気がする。
本当に納得しているのであればいいが、ノーなことはノーと言って欲しいと私は思う。
偉そうにいいながら、私も気づいてから意識して、恐れずノーを言うチャレンジ中ではある。
声を上げていきたい。
権力者に好き勝手やられるのはもうたくさんだ!
重鎮も、引退する時が来る
タヌキは見てる