ラグビー観戦
今日は静岡ブルーレヴズの試合を観戦しにヤマハスタジアムへ。
コロナ陽性者が出たことにより、3試合できず。初戦のチケットをとっていたので、私も残念だったが、いうまでもなく、選手や新指導したチーム関係者がどれだけ悔しかったか…
今日の試合みて伝わってきたわ。
情熱とか、絶対勝ってやるって気持ちとか、試合できる喜びみたいなの、ありふれた言葉になるけど、そういうことが溢れてた。
私はワールドカップからハマったにわかファンだけど、何気にもう10回近く生でラグビーを観戦している。
あの、音ね。ぶつかる音。
そして、たぶんだけど、私のようなにわかさんはたくさんいて、みんなそこまでルールとかよくわかってないけど、ラグビー観たくてきてる雰囲気が結構好きなんだよね。
オタクに憧れる私は、これがめっちゃ好き!ってものがない。人に熱く語れる応援してるアーティストや、スポーツチーム、趣味とかない。
ぼんやりしてる。
でも、結構ハマると実際の目で生で見たいという気持ちはよく起きる。
にわかファンバンザイ、である。
それが昔は嫌で、浅い奴って思っていた。
でも今は、なんか楽しい。
ちょっと見てみるか
聞いてみるか
作ってみるか
行ってみるか
観てみるか
損したくなくて、失敗したくなくて、想像でやめてたことたくさんあった。
でも、なんか、いろいろやってみようって思えるまでにもなった。
たくさん溜め込んでた嫌なこと、やりたくなかったこと、我慢しまくってたこと、とことん向き合って、やめることやめて、嫌とかノーをいうようにしたら、少し身軽になったのかな。
ちょっと気になることはやってみようって思えるようになった気がする。
我慢と嫌と辛い気持ちでいっぱいだったときは、それで心が埋め尽くされてたから…
勝ち負け関係ないなんて思わない。
勝って欲しい!!!それってこのチームに愛着湧いてるってこと。地元にラグビーチームがあるなんて有り難い。
応援楽しいわ。
ガツンでぶつかる音ね、ちょっとビビるけどいいね。
颯爽と切り抜けて走る選手も見てて気持ちいいしね。
また観に行くぞ。
身軽な自分を応援する。
欲
無くした時のショックは大きい
けれど、それはいずれおさまり、消える。
社会人になって初めての給料で初めてちょっといいネックレスを買った。小さな小さなダイヤがついていたネックレスは2万5千円ほどだった。
一目惚れで買った。
毎日つけられる華奢なものがほしいと思っていた時、出合った。
迷わず…いや、少し迷って買った。笑
それからたぶん、ほぼ毎日つけてた。何年も。
しかし、ある時、それは無くなった。
今までも見当たらなくなったことは何度かあれど、カバンのポケットにあったり、ティッシュケースの奥に(無くさないように)入れてあったり、ときには財布に入っていたりもして、手元に戻ってきてくれていた。
しかし数年前、見当たらない日々は続き、ついに部屋を隅々探し尽くして、絶対そこにはないだろうってところまで探して見当たらなくて、あきらめた。
日頃使っていた唯一のネックレス、しかも思い入れが強い。
学生の頃着けていた色褪せるメッキの安いネックレスとは違う。
時にクリーニングにだしたりして、汗をかいた日は丁寧に拭って大事にしていた。
しかし、無いものはない。心当たりは探した。ないものは無いのだ。ものすごい罪悪感が襲った。
なくして数年して、先日、ラジオから聞こえてきた
「アクセサリーを無くすのは、あなたを守る役割を終えたからー」
のような話。詳しくは忘れた。
少しスピリチュアルっぽい話けど、私はすんなりそうなのか…と受け入れたよ。
無くしてからずっと、新しいものは買わずにいた。
欲しいと思うものもなかったし、新しいものを買う気にもなれなかった。
でも、今また新しいネックレスがほしい。
そうだ、誕生石のネックレスがいいかな。
トパーズかシトリンか。
…
…やはり、ダイヤモンド?笑
22歳の時、一目惚れで買って毎日つける喜びを与えてくれたあのネックレスのようにまた心から大好きなものと出合えるといい。
猛烈に新しいを欲してる。蠍座らしく、執着心強く、なかなか切り替えられない私にしたら、新鮮で嬉しい感覚だ。笑
新しい年が始まりました。(今更)
食べてよく寝てよく歩いて。日々快便で。
心身健康で過ごせますように。
ローストビーフがキッシュになってしまったおせちと
消しゴムはんこ年賀
ちまちま作業は結構好きですね。
おせち作りは楽しかったです。
この季節に思うこと
クリスマスに向かうこの季節…
のちょっと前が一年で1番好きだ。
冬ど真ん中の今もいいんだけど、すぐクリスマス来ちゃうから、11月のしっかり夏の名残も消えて、寒さを感じることができる、もうちょっと長くクリスマスカウントダウンを味わえる季節がいい。
久しぶりに、今やってみたいことってなんだろう…と考えてみた。
時々、自分に生命力を蘇らせるためにやってる。
・太ったので痩せたい(やりたいことかい)
・デコレーションケーキを作りたい
・りんごパイを作る
・結構しっかりしたおせちを作る
・おはぎを作る(朝ドラの影響)
・温泉に行く
・大掃除…?
・鯵をいい加減に釣りたい
食べ物ばかりだけど、浮かんだのはこんな感じ。
ぼちぼち、やっていこうと思う。
やりたいこと書き出してみると、ちょっと生命願望湧いてくる気がするんだよね。
ボクラモスイジョウハサムイノヨ…
(ヒソヒソ)
動物の命を預かる
我が家は一度もペットを飼ったことがない。(金魚を除く)
家族で誰も犬や猫を飼いたいという人がいなかったこと、兄弟のスポ少などで土日は忙しく、お金もかかっていたからだと思う。
たしか一度だけ私が親に犬を飼いたいと訴えたことがあったが、「ちゃんとどんなときも世話できるのか、いい時ばかりじゃないぞ、動物の命を守れるか」というようなことを言われ、ただなんとなく可愛いから欲しいで交渉に試みた私は、恐怖心からあっさり断念した記憶がある。
「命を預かる」その認識は変わっていないし、あの時父が簡単に私に動物を飼う機会を与えなかったことを勝手ながら感謝している。
この先も、わたしは動物を飼わない気がしている。
とても恐れ多いのだ。
可愛い以外の様々な大変を受け入れらる自信が私にはない。
混血犬にもとても違和感を覚えている。
それは犬や猫に限らず、牛や豚でさえおきているんだよね。
真面目な話、全て人間の欲望故の誕生である。
こういう文を書くと、宗教的なにおいがしてしまう気がする…(気のせい
私はペットショップが苦手だ。
値札の貼られた無機質なケージに入れられ、自然とは無縁の箱の中で1日を過ごさせられている動物を見るに耐えない。
"可愛い"だけでは飼えない、とマツコさんがかつて言っていた。
同感である。
幾度は飼いたいと思うかも知れない、特に子供時代は犬がいる家が羨ましく思うこともあるだろう。
それでも、命を預かる覚悟あるかな、子供には重いかもしれないがそれを親が問いて、子供も親自身も少なくとも即答できないうちは迎え入れてはダメだと思う。
放し飼いも、辞めてほしい。
その飼い猫ちゃん、どこで糞してるか知ってる?
処理してる他人がいる。
ーそもそもちゃんと手術完了してますか…?
可愛いだけでは、生き物は育てられない。
日本のペット業界は異常だよ。
人間が好き勝手やりすぎ。
もういろいろ、見過ごしたくない。
何のために生まれてきたんだろう…人間が思うこと、動物はそんなこと思わないってことはない気がしてる。
人間の何かを埋めるために、動物を犠牲するのはおかしい、おかしい。ホントおかしい。
狂ってるって。
図々しくあれ
他人の不機嫌も、負の感情全てをも、自分が背負い込んでいた時、それはそれは生きづらいし、疲労感がたまらなかった。
いつも、常に、気怠い。
気疲れだったんだなと今なら思うけれど、当時はそうするしかなかった。
親に対して機嫌を伺うことが染みつきすぎて、それを他人にもしなければいけないとなっていた。
もうそんなことはしなくていい。
しかし、なかなか簡単に行くはずもない。何十年と洗脳されてきたのだから、簡単に割り切れるわけがなかった。
それでまた追い込まれる。
できなくてもいいし、すぐに割り切れなくてもいい、このしがらみがいつか消えていってくれる…
それくらいに思い込まないと、心がもたなかった。
溢れる選択肢を、自分の意思で選択することに躊躇ない人が羨ましかった。
"迷わない"ことがいいのではなく、迷ったとしてもそれすらも楽しんでいる人。自分で答え出すスキルが教育されてきた人。
私は答えを出すのが怖すぎて、親の顔色を伺いすぎて、常に(母親がなんていうか)が頭から離れなかった。
自分の人生なのだけど、そうはいっても…
いつまでも親のせいにするな、も
自分の人生なんだよ的なのも
理解はしても、そう簡単には割り切れないもの。
それらの言葉にも追い込まれていく自分が益々苦しくなった。
毒親や親ガチャという言葉があって、その言葉の意味が理解され始めていることは、個人的にはいいことだと思う。
あまりに生きづらかった。
今も、それある。
投げ出したくなる瞬間は山ほどあるが、"私は悪くない"をこっそり思うことにしている。
何万回も言われ、思い込んできた
"私が全て悪い"
そろそろひっくり返して、心気楽人生にシフトしてもいいでしょう、と願っている。
私は悪くない。
感情コントロールされて、それに慣れちゃうと、本当に疲れてしまうよなぁ。
おしゃれへのモチベーション
冬服をいざ出してみるが、当たり前だけど見慣れたラインナップ。
まぁ…いいか、なんて思い込もうとするも、なんとなく新しいニットが欲しくなった。
冬服を片した春に、何年も着古した白いニットを手放した。
たくさんきたウール100%のその存在が大きくて、タンスの隙間が、もう何着も手放したように感じた。
そして今日、新しい服を欲しいと思った。
「これ使えそう」とか「あれば着るかな」とかそんな感じではなくて、純粋に欲しいと思う服。期待と思う服を買いたい欲。
20代半ばに、一目惚れして、試着してあまりに可愛くて、欲しくて欲しくてたまらなかったニット。ちょっと無理して買っちゃおう!で買ったニットは何年も何年もわたしを喜ばせてくれた。
そういう買い物をしたい。
そういう買い物が好きだし、なんでもいいで服は買いたくない。
自覚ある頑固者である。
だけど、それが自分にとってとても心地よくいられることの一つ、テンションが上がること。
しばらく、服にテンションを上げられていながった。
また、服にときめいて、ちょっと無理して買っちゃおうかなって迷う買い物もしてみたい。
この感覚、味わいたい。
生きる活力かな。
わたしの生まれた秋。
大好きな秋に身も心もどっぷりとうもらせたい。
富士山のこの雪は、晴天続けばすぐに溶けてしまうそうです。
富士山は冠雪していてほしい。
今のわたしは、そんな小さな欲を見逃したくない。
欲はいいね。
とことんネガティヴに付き合う
ネガティヴがつらくて、ずっと笑顔を心がけていた。
本当は悲しくて苦しくてたまらないのに、無理して笑ってた。
無事にニコニコしてる…ように見える。
相手を安心させるつもりですることが、自分は泣いていた。
常に親の機嫌をとってきた私にとって、自分優先は簡単ではない。
そのことに気づいたのも、数年前。
そこから少しずつ、心の奥の奥にある、幼少期の苦しみに向き合っている。
そこを見ずにきたけど、誤魔化すように無理して笑う私の心は幸せではない。
自分の無表情も、許そう。
相手の不機嫌は、自分が何かしたことが原因でなければ放っておこう。
ネガティヴを許すことは、無理してポジティブになろうとするよりは健康にいい気がしてる。
他人はいつも眩しく見える。
誰にも言えない絶望も、親への憎しみも、自分を惨めに思ってしまう気持ちも、嫌になる程感じていた。
苦しいが仕方がない。
本当に苦しかった過去だ。とことん絶望には付き合うしかない。
時間はかかるもんなんだな、私は本当に切り替えができない。
でもそれを受け入れてみる。
自分にしかわからないんだ。
たまに言っている。
「よく今日まで頑張って生きてきたね」
怪しい宗教家のよう?
言うと、泣けるんだよね。
寒いからあたたかくいよう。
今日からトレンチコート。